それでも世界は美しいと言いたい。

好きなものに囲まれたシンプルな生き方を

孤独を感じる人へ

「自分が世界でたったひとりみたいな気持ちになったときは、空を見上げるんだ」

 

 

昼でも夜でも構わない。

雨でも晴れでもかまわない。

 

 

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苦しくて辛くてもそれに向き合い続けることが人生そのもので、

 

それが生きているということで、

 

それは善でも悪でもなくて、

 

ただわたしたちはこの世界に生きていて、

 

この世界は奇妙な奇跡に満ちているのだということ。

 

ただそれだけのこと。

 

 

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だからせめてひとつくらいは、信じられる愛を見つけたい。

 

 

これからも絵画を愛する人生を

「わたしにとってはボナールのデッサン一枚の方に価値がある」

 

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敬愛する写真家、ソール・ライターが、ハーパーズ・バザーの編集者に放った言葉。

 

自分にとってはそこで働いた一年より価値がある。返答は軽蔑したような眼差し。

 

 

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たった一枚の絵に筆舌尽くしがたい力が宿る。完成された油絵でも、もちろんデッサン一枚でも。

 

ルーベンスのデッサン一枚から来る衝撃。ルドンのデッサン一枚が持つ哀愁。

 

 

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生まれ変わっても絵を愛する人生を送りたい。

 

人間でなかったとしても、絵のような何かを愛する心を持ちたいと思う。

 

心のようなものがなかったとしても、かつて絵を愛することで得られた何かを渇望する存在になりたいと願う。

 

 

 

 

【コミュニケーションの未来は】

先日ネットである番組を見ていたときの話です。

 

 

番組自体はこれからやって来るIT化社会について、無知な司会者と女性の有識者がただやいのやいの話をするという軽めのトークに終始していましたが、半分からかうような流れで、司会者が出演されていた有識者の女性のコミュニケーション嫌いについて話を振りました。

 

 

その女性曰く、

これからは特に仕事において、他人とコミュニケーションをとる機会が極端に減るだろう。

今すでにその傾向が出始めている。

AIが多くの仕事を担うようになり、実際に人と会って何かをしなければならないという場面がほとんどなくなる。

そのことが本当に心から嬉しいし、無駄な時間を割かなくて良くなるそんな未来に早くなればいいのにと切望している。

早く生まれてしまったような気がして残念だ。

 

 

これからはわたしのような人間の時代が来る、と。

同じように無駄なコミュニケーションに苦しんでいるみんなにとって明るい未来がやって来る、と。

 

 

 

数十分の短い動画でしたし、そこまで真面目につくられたコンテンツではなさそうでしたが、彼女の主張には何かとても切実なものを感じました。

出演者は皆、笑いながら話しをしていました。

しかし彼女の言葉や表情のなかには強い怒りや苦しみが滲んで見えました。

きっとこれは本心の吐露なんだろうと、強く感じました。

 

 

 

この話がなぜそんなに記憶に残っているのかというと、理由は2つあります。

 

 

 

ひとつめは、この有識者の女性のようにここまで深くコミュニケーションを嫌悪している人がいるという事実を忘れていたからです。

 

話している彼女の言葉に含まれる棘や毒、口元の歪み、サッと鋭くなる目元などから、本当にコミュニケーションを疎ましく思っているという気持ちが悲しいほど伝わりました。

 

 

とても悲しかったのです。

 

 

コミュニケーションが難しくてこんなに苦しい思いをしている人がいるのか。

わたしが「ただのコミュニケーション」だと思っているコミュニケーションが、まったく「ただの」だと感じられない人がいる。

そして、それは相当苦しいことなんだ。

 

 

彼女の全身から溢れる嫌悪感。

一瞬で伝わったその強さに驚きました。

 

 

 

 

次に、彼女の言う通りの未来を想像してみました。

そこで新たな衝撃が走りました。

 

 

きっとIT化が進めば、今よりもっと相互コミュニケーションが希薄だと感じる人が増えるだろう。

そして有識者の彼女のように考える人が過半数を超えた場合、今度は反対に、現在対人コミュニケーションを軸にして生きている人たちが同じように苦しむことになるのではないだろうか。

IT化の荒波に上手く乗ることができず、揉まれて溺れてしまう人たちがいるのではないだろうか。

 

 

これがふたつめです。

 

 

物事は何でも、一度極端に行けば揺り戻しが来ます。

 

 

この先、変化の波の狭間で押しつぶされてしまう人が出てくるのではないだろうか。

しかも、想像しているより多くの人が苦しんでしまう未来もあり得るのではないだろうか。

 

 

 

 

ならば、今のうちにコミュニケーションの在り方や認識を変えることは出来ないだろうか。

 

言葉はそこ含まれる意味を固定してしまう。

人の思いや想像力はもっと流動的であやふやなのに。

 

 

 

 

 

受け皿が必要なのではないだろうか。

 

 

 

病院やクリニックやカウンセラーや新興宗教ではなく。

もっと身近 で楽しくフランクな、受け皿としての場所。

 

 

そう、例えば友達の家のリビングルームみたいな。

 

 

 

そんな場所がたくさんあれば、未来はちょっと変わるかもしれない。

そんなことを日々考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【人は人で動く】

コミュニケーションの持つ力は強い。

 

コミュニケーションは力です。

特別なスキルも能力も持ち合わせていないわたしがこの世界を生き抜いてこれたのは、

この力の重要性に気が付き、常に意識して行動してきたからです。

 

コミュニケーションは人が生き抜くための力であり、人と人を繋ぐ強力な手段です。

 

 

結局のところ、人は人の持つ魅力に惹かれ、人によって動きます。

自分の放つ言語/非言語にもう少しだけ意識を向けてみましょう。

伝えたいものごとがきちんと伝わっているのか、その最後の段階まで追いかけてみましょう。

 

 

コミュニケーションを円滑するには、いくつかのポイント押さえる必要があります。

 

まず第一に、共通認識持つことが重要です。

共通認識とは、お互いが同じ理解をしているかということですね。

 

わたしたちは、話をするのに言葉を使います。

ひとつの言葉、ひとつの文章が持つ意味にはいくらかの幅があり、

同じ言葉を使っていても指しているものが全く同じとは限らないの現実です。

 

皆さんも経験があるかもしれませんが、

同じ「結構です」という言葉が、イエスとして使われることもあればノーの意味を持つこともある。

そう、ご存知ですよね。

言葉はそこに正反対の意味まで含めることができるのです。

 

 

使っている言葉の上に乗っている意味が、お互いの頭の中で同じものを指しているのか。

 

これが重要だということです。

 

 

 

実は、コミュニケーションという言葉自体がかなり大きな幅を持っています。

コミュニケーションを円滑にするという共通の目的があって議論を重ねているのに、話が全然まとまらない。

その原因として、コミュニケーションがどういうものであるかの認識がそもそも違っている場合があります。

 

わたしは常にコミュニケーションを3段階に分けて捉えるようにしていますが、

この3つは違う言葉を当てた方がいいのではないかと思えるほど全く違います。

 

これらの違いを無視して話し合いをしても、共通認識がない状態で無理な努力をしているので結果に結びつきません。

どんなに頑張っても上手くいかないのは、求めているものが違うからです。

 

そんな努力に貴重なお金と時間をかけていることに気が付いて欲しい。

努力しても無理なんだという悲しい勘違いをしないで欲しい。

 

コミュニケーションが下手だという理由で何かを諦めたり失ったりしないで欲しい。

 

 

 

全てを網羅しようとしなければ、コミュニケーションはもっと単純に考えることができます。

だから、せめてもう一度だけ努力する勇気を持ちましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【コミュニケーションて何だろう】

皆さんは、コミュニケーションについてどれくらい興味がありますか?

全くないということはありませんよね。

この世界をたったひとりで生きていくことは誰にも出来ません。

わたしたちは、日々何らかのかたちで誰かとコミュニケーションを取りながら生きています。

 

 話題としてもかなり一般的なので、いつもどこかで誰かが意見しているのを耳にします。

 

「最近の若者にはコミュニケーション能力がない」

「実は友達がコミュ障でさ」

「昨今のグローバル社会はコミュニケーション力の高い人間を必要としていると思う」

「成功するにはコミュ力が鍵になる」

 

このような話を、誰でも一度は聞いたことがあるでしょう。

 

 

テレビやネットで多くの人がそれぞれの立場でコミュニケーションを語り、

聞いているうちに何だか分かったような分からないような気持ちになる。

考えたようで、でもすぐに忘れる。

同じ言葉がテレビコマーシャルのように何度も繰り返され、

気が付かないうちにみんなの意見が自分の意見であったかのように思えてしまう。

 

「やっぱりコミュニケーション能力は大事だよね」

 

 

そうだろうと思います。

そうですよね?

 

でも皆さんは、一度立ち止まって考えたことがあるでしょうか。

 

 

コミュニケーションの能力とは具体的に何を指しているのだろう。

その能力は有る無しで測れるものなのだろうか。

コミュニケーション能力が高いとは、どのような状態のことを言うのだろう。

 

 

じゃあ、自分は何をコミュニケーションとして捉えているんだろう。

 

 

うーーん。

 

そしてこれは個人的な質問ですが、わたしはなぜコミュニケーションについてこんなに興味があるのだろうか。

 

その理由には心当たりがありました。

 

 

わたしは周りから、コミュニケーション能力が高いと評価され続けてきました。

でも自分ではずっと疑問に思っていました。

環境適応能力、空気感やパワーバランスを読む力はそれなりにあると思っていますが、

果たしてそれだけでコミュニケーション能力が高いといえるのでしょうか。

自己評価ではネゴシエーション力など全くと言っていいほどないし、自分の負の感情に弱く、コントロールして相手を動かすことも出来ない。

そんな私のコミュニケーション能力が高いと言えるはずがない。

ずっとそう考えてきました。

 

 

コミュニケーションとはいったい何なのか。

考えて続け調べ続けた結果、1つの明確な事実に突き当たりました。

 

 

同じ言葉でも、認識している意味が微妙に違うということです。

コミュニケーションとは、かなり広義な意味で捉えられている言葉なのです。

 

 

あの壁を赤い色に塗り替えようという相談をしているとします。

それは良い考えだと話を進める中で、お互いの思い浮かべている赤色が全く同じである可能性はとても低い。

具体的なカラーサンプルを前に話しているならともかく、想像のうちだけで会話を進めている場合、例えばわたしがピンク色に近い明るい赤を考えて話しているのに対し、相手がどす黒いべったりした赤を思い浮かべていることがあります。

そして気が付かないまま、話はどんどん進んでしまうのです。

 

 

 そこに気が付いてようやく腑に落ちました。

わたしのコミュニケーション能力を評価してくれる人たちと、わたしの考えるコミュニケーションというものが、そもそも違う意味を持っていたのです。

 

 

 

では、わたしの考えるコミュニケーションとは何なのか。

これを突き詰めて考えてみようと思いました。

そうしてたくさんの意見を集めていくうちに、共感できる素晴らしい考え方を持つ多くの先生を知ることが出来ました。

 

 

コミュニケーションは大事です。

 

そこに依存はありません。

皆さんも同じように感じているはずです。

 

 

ただ、どのように大事なのか。

問題となっているのはどの部分なのか。

分かりやすく腑に落ちて、血肉になるような言葉で知りたい。

 

 

そして共有したい。

 

 

 

ひとりでも多くの人が簡単なコミュニケーションに悩まず自由に生きて欲しい。

そうすればもっと楽しい人生を送れるはず。

 

 

わたしはそんな思いで日々コミュニケーションを勉強しています。

みんなで一緒に考えて生きたい課題だと考えています。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

善き物語は本当に人生を救う

人間にとって物語の持つ力は圧倒的です。

 

特定宗教への信仰然り、自己啓発本だってその中に必ず誰かの物語がある。

小説を読む時間なんて無駄だと言う人もいるけれど、

そう言う人に限って巧妙に隠された誰かの物語に心酔していたりする場合がほとんどですね。

 

 ここで問題になるのは、それが善き物語なのか悪しき物語なのかということです。

なぜならば、善き物語のみが人生を救うことができるから。

 

 では、それが善きものであるか悪しきものであるかどうやって判断するのか。

 それが簡単なようでいて、とても難しい。

 

だからこそ、世の中は常に混乱している。

視点がひとつでは無いから。

「君の物語」と「僕の物語」基本的には違うものだから。

 

 

わたしは、人間にとっての完全な善や悪は存在しないと思っている。

 

 

だからこそ、できる限りたくさんの物語と出会うこと。

内包されている善悪が何を指し示そうとしているのか自分の頭で一生懸命考えること。

そして君が生きている現実と照らし合わせること。

 

 

君にとって善とはいったい何のかを考えること。

 

 

 

そして善き物語をたくさんたくさん、集めていけばいいと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

人生は短いし、生涯に読める本は限られている

歳を重ねるごとに、「人生ってやっぱり短いのかも」と感じます。

 

 

無駄なこと

 

については皆さんそれぞれ意見をお持ちだと思います。

が、時間=命を毎日削って生きているわけなので

わたしなんかはできれば有益に使いたいな、と考えてしまいます。

 

 

で、読める本の数も限られている。

 

自分の思想を根底から覆す、

深い感動に動けなくなるほどの、

あまりに美しくて悲しくなるような、

未来を輝かすような、

胸を熱くするような、

何度もなんども読み返してしまうような、

 

そんな素敵な物語との出会いが、ひとつでも多い方がいい。

たくさん出会って心を揺さぶられたい。

 

 

と、心から思うのです。

 

 

そのためにはまず、自分を知ること。

自分の好みを知り、好きなことに自信を持つこと。

 

そして、本に対して疑問を持つこと。

新しい興味を持つこと。

素直になること。

怖がらずに好きだということ。嫌いだと言うこと。

 

 

そうやって少しずつ物語に心を開いていけば、そこには必ず黄金の果実があります。

 

食べたらやみつき間違いなしの果実です。