他人のふり見て我がふりを直すとは
最近では誰でも彼でも自分の意見を公に発表できるので、いろんな意見を耳にするようになりました。考え方は基本的に自由だし、強制しなければ主張することが問題になることも少ないでしょう。多様性は歓迎することなので、方向的には良いのではないかと思います。
ただし、他人の意見で不快になることはありますよね。
料簡の狭さとか、度胸のなさとか、性格の悪さとか、発する言葉にはたくさんの個人情報がまとわりつきます。「その人」と「その人の発言」は、切っても切れない。だから一つひとつの発言には責任が伴うと言うんです。発する言葉に責任があるんだから、発する内容がどんなふうに影響するのかにも責任が伴います。
だいたい、ふんぞり返って偉そうなこと言う人とか、真っ当なことを言うだけじゃダメなんだよっていう問題に対して真っ当なことだけ言ってどや顔してる人っていうのは、問題を解決する気がない。意見を言って褒められたいだけ。その後のことなんて考えてやしない。
偉そうなことって、言ってて気持ちいいですもんね。分かりますよ。そこには理不尽に対する純粋な怒りが、ほんの少しくらいは含まれているのかもしれない。でも、本当に解決する気があるのなら、まずは反対意見を聞くと思うんですよね。反対意見とかよくわからない意見とか聞かないと、何が問題なのか分からないから。
と、ここで自分のことを振り返るわけです。身に覚え、あるんだよな。。解決する気がないくせに分かりやすい正しい意見だけ大声で言って、怒りに任せて他人を罵倒して、偉そうなこと言って気持ちよくなってることってあるよな、と。。
言ってしまえば、コレ今もそうですよね。
自分が今批判しているその人と、まさに同じような気持ちになったことがあるからこそ、その卑怯さや醜さが手に取るように分かるんだということを、そろそろ認めないといけないのでしょう。
他人は自分を映す鏡とはよくいったもので、映った自分の像に多少のズレはありそうだけど、真実なのではないかと思っています。いつか大切な人を傷つけて失くしてしまうその前に、他人のふり見て我がふり直そう。
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